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結月さんのブログは、彩り豊かな話で賑わっています。その中に、女性は点的であり、男性は線的であるという、時間認識の話がありました(2009年1月11日)。
 自己のジェンダーを男性と規定する私は、線的な時間についてでしたら合点がゆきます。その上、日本史の研究の真似ごとをやっておりますので、その時間感覚たるや、「こないだ」と言えば、数十年、いや数百年くらいは、容易に「飴」(小林秀雄「無常という事」)のようにのびていきます。
 さて、以下では、少なくとも現代日本の男性にとって通有の、直線的な時間を取り上げて、話を進めたいと思います。

私は「飴」を過去にのばす訓練は少し積んでおりますが、逆に未来へのばしていくと、どうなるでしょう・・・。
 考えられる限り、そこには自らの死があります。そしてやがては、人類の死があります。それがいつになるかは分かりませんが、その時はいつか必ず訪れ、多くのものが失われることでしょう・・・。
 少し落ち着いて考えるならば、これはむしろ自明のことです。それなのに、どうしてこんな重大なことを、誰もさほど気にとめない(ようにみえる)のでしょうか。かく言う私も、真木悠介さんの本を読んで初めて、明確に「問題」として自覚し、対峙したのでした。

だとすると、私がやっている営みはどのような意味があるのだろう・・・。
 この疑問に立ち止まる者を暗闇へといざなうのは、「どうせ死ぬから意味がない」という命題です。

この暗闇の中から再び光の世界へと突き抜けるための糸口は、「では死ななかったら意味があるのか」と反問することでしょう。
 もし私たちが永遠に死なない(死ねない)存在だとしたら・・・。そこには死への恐怖はありません。一方、生への喜びはあるでしょうか。
 想像するに、老化という現象はなく、食物を摂取する必要はなく、働く必要はなく、自らの遺伝子を後世に残す必要もなく、従って異性が関係を持つ必要もなく、それらにまつわる様々な感情もなくなるでしょう。生への喜び以前に、そもそも「生」という認識自体なくなるに違いありません。

してみると、私たちは「生まれて死ぬ」ということに大きく規定された存在であり、私たちが「生まれて死ぬ」存在であることは、悪しきものの源泉であるのみならず、良きものの源泉でもあります。つまり、「死ぬからこそ意味がある」といえるのです。
 先に挙げた「どうせ死ぬから意味がない」という命題は大幅に相対化され、「意味がない」ということは、むしろ死なない場合のほうがより妥当するように思えてきます。死なないことには意味がない、ということでしょう。

以上、弱き男性の意識の一端をお見せすることに終始してしまいました。

最後に、生まれて死ぬことを思って着物を着てください、ということを申し上げておきたく思います。着物には、四季の移り変わり、人生の移り変わり、心(脳神経を媒体とする意識)の移り変わりが、豊かに表現されています。そこには生命が脈打っています。着物は、生まれて死ぬ私たちを美しく彩るものなのです。

(青海史之介)
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