今の日本にないものはロマンティシズムであります。あるようでない。そうだと思っていて、それは本物ではない。人間が生きていく上で、なくてはならない人生の芳香。
今の日本人の顔を見ていて思うことは、どれもこれも皆、同じ顔をしているということ。個性がなくて、表情が平凡で、皆、のっぺら坊。まるで氷の溶けきったウイスキーの水割りのような顔。
貴女は貴女でしかないのに他ならぬ貴女であることを貴女の顔が物語っていない。そこには貴女でしか味わえない経験から生み出される表情が刻まれていない。貴女が生まれて、そして死ぬまでの時間はどこを切り取っても貴女でしか経験できないオリジナリティ溢れるシナリオであるはずなのに、全く何もない。スッカラカン。
生きていればいいことより嫌なことのほうが多い。だからこそ、ロマンティックにいられる年頃にはロマンティックな表情をしておきたいものです。
氷のように無表情。何となくイライラ、ピリピリしているささくれ立った表情。ちょっと話しかけただけでキレそうな安物のナイフ、いえ、カッターナイフのような表情。
貴女は理由もなく、イラついていませんか?
さて、今月ご紹介するのは、大正時代に活躍した挿絵画家、高畠華宵です。
なんて美しいのでしょう! ロマンあふれる表情。しなやかで、品性に満ち、そして色気たっぷりの仕草。これこそ日本的女性美です。
着物の着こなしもこうでなくてはなりません。無論、当時は帯板なんてしておりませんから、ちゃんと腰がくびれております。若い女性の肉体は、この腰のくびれが美しいのです。
それにひきかえ、今のズンドー崇拝の着付けでは、このくびれを消すためにタオルを詰めたりするものですから、こうした色気が出ません。それに動きにくくなるので、華宵の絵のようなしなやかな仕草ができません。
若い女性は肉体に張りがあるので、タオルなんていらないのです。タオルを必要とするのは、ミドルエイジ以降の肉体の形が無残に崩れてしまったときに補強するためと考えておきましょう。しかし、きもの美人でいるためには、食生活や運動に心がけて、年を重ねてもできるだけ体型が崩れないようにしたいものです。
ところで高畠華宵が活躍した大正浪漫では、着物の図案や色彩も今とは違い、とても大胆なものです。もともとの日本的なものに加え、アール・ヌーヴォーやアール・デコの影響も強くなります。また西洋の花も図案化され、それらが化学染料の導入によって色彩がより鮮やかになります。
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こうした美しい着物がこの時代には生活に自然に取り入れられていたことが今との大きな違いです。高畠華宵の美人画が魅力的なのは、そこに描かれる美人たちに生活感があるからで、人間としてのリアリティがあるからです。
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例えば昨今の着物雑誌などに掲載されている着物モデルの写真など見た目はきれいですが、生活感が全くありません。モデルは人間には違いないが、マネキンのようにも見える。しかも、シワひとつない着付けに詰め物でボディラインを消した着付けはまるで人間らしさがない。
よく着物姿のモデルが茶屋などで休んでいる写真などがありますが、いかにも撮影のためのヤラセで、その前後の時間を感じさせません。つまり、その着物美人がどういういきさつでその茶屋に行って、これからどうするのだろうといった生活感からくるストーリーがまるでないのです。
ですから着物雑誌の着物姿のモデルを見ると、どうもその女としての、また人間としての匂いが全くありません。そんな生活臭がない着物姿は不自然で気持ちが悪い。生活の中では着物は着崩れるし、汗もかく。おはしょりだってずっと真っ直ぐなわけがない。髪だって乱れてくる。しかし、女性の美しさや色気というものは、その女性の生活のちょっとした生活臭から香り立つものなのです。 | |
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高畠華宵の美人画にはそんな女たちの着物で過ごす日常からにじみ出る美しさが描かれています。そして同時に生活の中に着物の美しさを意識することなく取り入れて過ごしていたこの時代の日本人の美意識の高さを物語っているのです。
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今の日本人がどれほど日常に美を取り入れて生活できているでしょうか? 着る洋服にしても、安さと利便性ばかりで美的なものを着こなしている人はほとんど見ることはできません。生活に美しさがないのだから、今の日本人の顔にロマンティシズムを感じられないのはいわば当然のことかもしれません。
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