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vol.5 「ランプの消えぬ間に、生を楽しめよ」

さて、今月は、

「ランプの消えぬ間に、生を楽しめよ」

と、書き付けてみる。

これは作家の開高健が好んで使っていた箴言でございます。

あれよあれよと、もう5月。ついこの間、大晦日の夕方から銀座の坐・和民で飲んでいてその翌日にお正月シャンパンを飲んだと思ったらもうすでに桜の花は散ってしまっているし、ついこの間、ブローネ泡ヘアカラーで白髪をやっつけたと思ったら、またもや白髪が目立ち始めている。そういえば前回染めたときはもう三ヶ月も前か、と思い立つ。

と、このように時が経つのは本当に早くて、これはわたしだけの時間感覚なのかしら?と思ったら、結美堂にいらっしゃるお客さんが異口同音に言うのだから、どうやらわたしだけではないらしい。
 日本の平均寿命が概ね80歳だとしても、この調子で行けば余命はあとわずかということになりそうです。まさに人生はランプの灯が燈る程度の時間しかない。

そこでもう一度、

「ランプの消えぬ間に、生を楽しめよ」

と、書き付けてみる。

どうです? みなさん。ちょっとはこの言葉の意味がズシリと重く感じられるでしょう? 日々わたしたちは日常という体制に流されて生きている。しかし、自分はまだ若いと思っていたのに、いつしか顔の小じわが気になり始め、産まれたばかりと思っていた我が子が高校受験をしていたりする。

日本経済を支えていた企業戦士と言われた男たちは定年を迎え、毎朝の通勤ラッシュから解放された瞬間に長年連れ添ったワイフには家庭内粗大ゴミと揶揄され、仕事以外に生きがいを見出せぬまま忍び寄る老後という絶望に刃向かうが如く、「俺だってまだまだやれるんだぜ」と意気込み、地道に積み上げてきた価値ある退職金を株式投資やFXにつぎ込んでしまう。しかし、その退職金は「資産運用」という名の詐欺のもとに元本割れで瞬く間に消えてなくなり、いよいよワイフから離婚届を突きつけられる。

男は思う。「俺の人生は一体、何だったんだ…」 そして、さらに思う。「残りわずかの人生を、どう過ごせばいいんだ…」

男は自殺を考えるかもしれません。自殺する勇気がなくとも、この男の残された人生はそれほど期待できるものではございますまい。なぜなら、彼は生きることの意味をこれまで一度も真剣に考えたことがなかったからです。

そこでもう一度、

「ランプの消えぬ間に、生を楽しめよ」

と、書き付けてみる。

どうです? みなさん。「生を楽しめよ」という言葉がズシリと重く感じられるでしょう?

しかし、「生を楽しむ」ということは実に難しい。有り余る金で贅沢し放題、ということでもなさそうです。それにそもそも有り余る金そのものを手に入れられることすら至難の業で、それゆえに「もし宝くじが当たったら…」なんていうことをみんな言うわけですし、しかし大金持ちと言っても本当に幸せそうなひとはいない。むしろわたしは大金持ちというのは不幸なのではないか、とも思うくらいです。
 ともかく贅沢し放題というのは有り余るお金があったら「楽しそうだ」という一般ピープルの妄想に過ぎず、そんなことは羨ましがっても虚しいだけ。では、自分が置かれている現実的環境の中でどうすれば「生を楽しむ」ことができるのでしょうか?

わたしは「生を楽しむ」ためには、「一生懸命やる」しかないと思っています。極めて抽象的でございますが、とにかく「一生懸命」やる。そうすればおそらく最期、人生を終えるとき、「楽しんだ」と言えるのではないでしょうか。

何を一生懸命やるかはひとによって違います。それは仕事かもしれないし、趣味かもしれない。開高健であれば魚釣りを一生懸命やりました。

しかし、人間はなかなかこの一生懸命ができない。人間はサボる。もういいや、と投げ出してしまう。面倒臭くなる。挫折する。すると人間は言い訳を始める。

「いや~ やるつもりだったんだけどね… どうも最近体調が優れなくてね…」

だとか、

「ウチの主人の安月給じゃ、楽しむものも楽しめないわ。どこかいい男、いないかしら? ホント!」

この世で最も魅力的でない行為は、“言い訳”です。この世で言い訳ほど、ひとを幻滅させて、ひとの価値を下げるものはない。

言い訳というものはひとを幻滅させるだけではなく、何といっても自分自身を惨めにさせます。それに言い訳は自分自身への裏切りです。そもそも自分を裏切るような人間が他人を裏切らないわけがない。信用というものはまず自分を裏切らないということから生まれます。

自分に甘くて、他人に厳しい。

得てして人間はこんなものです。特に今の日本の世相はこの傾向がとても強い。まず自分に甘いということを如実に表した言葉があります。それはわたしが大嫌いな言葉、

「自分へのご褒美」

です。

こんなにも自分に都合のいい言葉はありません。自分を甘やかす最大級の言い訳。こんな言葉を頻繁に使うひとをわたしは信用しない。本来、ご褒美とは他人にするものです。自分にするものではありますまい。

総じて、自分へのご褒美をしているひとに限って、褒美をもらえるような働きをしていません。ただ単に欲しいものがあって、これを買うとカミさんに叱られる。でも欲しい。そんなときに「自分へのご褒美なんだよ…」と言い訳して買う。

独身でも同じです。今月はちょっと厳しい… 飲み会が重なった上に、腹が立つことに結婚式なんかに呼ばれてしまい3万円のご祝儀で大出費。クソ!何で他人の結婚に俺が金を払わなきゃなんないんだ! 絶対、理解できない!! 俺だってほしい腕時計があるというのに! しかし、考えてみれば今月の俺って、結構頑張ったかも… 売り上げノルマには今一歩及ばなかったが、それでもこの不景気にしてはいいほうに違いない。他人の結婚式にも律儀にアルマーニのスーツ姿でキメた俺。しかも地方で結婚しやがって、一泊二日の強行軍でせっかくの土日が台無し。やっぱ俺って頑張ってる…? よし! 自分にもご褒美をやらなくっちゃ! そうでないと俺が可哀相! あの腕時計を買うと決めた!

とまあ、こんな感じで自分を甘くする言い訳はいくらでもあるものです。

こんな自分に甘い人間が多いと同時に、他人には厳しい人間が多いのが今の日本の大問題です。

いい意味で厳しいのならいいですが、今の日本人は他人に対して自分ができないような正論や正義じみたことを偉そうに言って、他人に対して必要以上の潔癖を求める。いわゆる一億総クレーマー状態です。

これはまさしくドイツで台頭したナチスがファシズムを展開したときのように、もしくは中国で文化大革命が行われたときの精神状態と極めてよく似ています。

つまり、ナチスのユダヤ人排他主義、もしくは文革の毛沢東語録を信奉することが「潔癖」となり、そうでないひとを吊るし上げ、迫害する。そして最終的には処刑する。

今の日本で何でもかんでも謝罪を強要する傾向があるのは、ファシズム的潔癖のヒステリー状態だからです。

しかし、他人には潔癖を求めても、自分には甘い。これほどたちの悪いものはありません。

こうした自分にだけは都合のいいご都合主義では、「一生懸命やる」ということを遂行できそうにありません。その場しのぎの言い訳で日々日常を過ごしていく。その日常はいつしかあなたの余命を静かに、でも着実に浸食し、気づいたときには頭の髪はすっかり禿げ上がり、おっぱいはだらりと垂れ下がり、入れ歯がなくては食事もできず、当てにしていた年金はお国の身勝手な事情でほとんどもらえず、充実感を何ひとつ味わえぬまま、“死”を迎えるのです。

まだまだ人生は長い、と思っていても、それはランプの灯の如く、音も立てずに人生の灯火はスゥっと消えてしまう。生を楽しんでいないと、死の直前の最後の感情が後悔ということになる。そして、生きてきたことへの虚しさを抱えながら三途の川を渡らなければならない。

わたしは嫌だ。虚しさを抱えて三途の川を渡りたくはない。わたしは三途の川は白装束ではなく、京友禅の振袖姿で渡ると決めている。死化粧に至るまで愛する資生堂の商品でバッチリ!キメてやるつもりです。

そんなことを考えていると、人生がおもしろくて仕方がない。なんて生きていることは楽しいのでしょう! 山田詠美風に、ビバ、自分!

「ランプの消えぬ間に、生を楽しめよ」

わたしのランプの燃料はどれほどあるのかわかりませんが、少なくともわたしには「生を楽しんで」いる、という実感だけはございます。

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