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第1回目のお客様は、『影武者』『乱』など数々の黒澤映画で撮影を担当された上田正治さんです。 銀座の上海料理店で白ワインと紹興酒を頂きながらの楽しい対談は、なんと5時間以上にもおよびました。今回はその前編をお届けいたします。
日本映画全盛の東宝入社時代
結月 今日はひどい雨だったので、着物はやめようかと思ったんですけど、せっかく上田さんにお会いするので着てまいりました。赤い江戸小紋です。上田さんだったら、わたくしが着物姿で現れても大丈夫でしょう? 映画の世界には、もっと変わった人が沢山いらっしゃるでしょうから(笑)。
上田 俺もいろんなところに行って、いろんなものを見てるから(笑)。
結月 今日は着物だけではなく、黒澤組のお話や女優さんのお話など、いろいろ伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。
上田 着物の話はね、ほんとは成瀬(巳喜男)さんあたりが生きてればよかったんだけどね。着物の映画をいっぱいやったから。俺も成瀬さんのは2、3本やったけど。
結月 何をおやりになったんですか。
上田 それこそ、『流れる』(1956)だとか。もちろん、撮影所に入ったばっかりの下っ端の時代ですけど。でも、今は着物の映画なんて、わからないんじゃないの。みんな知らないから。芸者の映画を撮ろうとしても、まず芸者を知らない。今の監督は全然遊んでないでしょう。その点、昔の映画人というのはよく遊んだから、そういう雰囲気はよくわかってる。だから、芸者遊びとか、そういう話は上手いよね。川島(雄三)さんなんかも凄かったよ。
結月 川島監督は若尾文子主演の『女は二度生まれる』(1961)ですとか、芸者の映画を撮っていますね。
上田 川島さんが築地なんかに行くと、「あら、先生!」って芸者たちがワーッと集ってくる。なんだろう、この人は、凄いなあって思ったね。昔の人はそのくらい遊んでた。遊んでたっていうことは、勉強してたっていうことなんだけどね。昔はそういうふうに遊びを映画に持っていけたけれど、今の連中は真剣にやるからさ。まあ、今は儲からないからしょうがないけどね。だから、映画学校でもよく言うわけ。この商売は絶対食えないんだから、その覚悟でやれよと。
結月 上田さんが東宝に入られたのは。
上田 昭和31年。昭和13年生まれだから、もう化石ですよ(笑)。俺くらいの年で今もやってるやつはほとんどいないよね。
結月 最初から映画の世界に入ろうと思われたんですか。
上田 いや、そうじゃなくてね。当時は就職難の時代だったから、あちこちいろいろ受けて、たまたま受かったのが東宝だった。最初は食うためですよ。で、蔵前工業の機械化を卒業して東宝に入ったんだけど、「お前は機械科だから撮影だろう」って(笑)。それで撮影部になったわけ。だから、俺と一緒に入った電気科のやつは照明部に入ってる。そんなもんですよ、昔の撮影所は。映画が好きで入りましたっていうのは、監督だよね。東大から京大から、一流の大学出ばっかりで。(石原)慎太郎が東宝に来たのも、芥川賞とってすぐだったからね。みんなエリートでしたよ。
結月 昭和31年というと、日本映画全盛時代の終わりに近い頃ですね。
上田 だから、一番いい時代の最後は知ってる。凄かったんだよ。御殿場なんか行くと、町中タダだからね。スタッフの飲み食いは全部製作部が払うわけ。「俺が払うから、みんな飲んでこい」って。そのくらい儲かった。ほんと、御殿場なんて凄かったよ。あそこは自衛隊も来るから、むこうは一個中隊、こっちは団体で。でも、女の数は決まってるからさ、もう、なにがなんだかわかんないわけ(笑)。今はそういうことをやるやつはほとんどいない。いないというか、できないんだよね。金がないから。ほんと、あの頃はいい時代でしたよ。
成瀬巳喜男、小津安二郎の演出法
結月 成瀬さんというのは、演出はこと細かく言う方だったんですか。
上田 いや、俺の見た範囲ではほとんど言わないね。何も言わないで黙って見てて、「うーん、違うから、もう1回」って。
結月 役者は怖いでしょうね。
上田 その典型が小津(安二郎)さんだね。小津さんは東宝で1本だけ『小早川家の秋』(1961)を撮ってるんだけど、その時に森繁(久弥)さんがそれをやられた。何回も何回もやらされて、「じゃあ、2番目にやった芝居でいきましょう」って。そんなこと言われても、わかんないよね(笑)。あの人は相手の芝居を見ながらアドリブでやる人だから、何回やっても違うんだよ。それで小津さんが、「あなたは芝居が凄く上手いけど、やるたんびに違うね」って。だから、小津さんは笠智衆みたいのが一番いいんだよ。いつも同じで、何をやっても変わらなくて(笑)。しかし、昔は役者さんも面白い人がいましたよ。今は『七人の侍』なんて、絶対に撮れない。
結月 いい俳優がいませんからね。
上田 せいぜい、三人の侍くらいだろう(笑)。ちょっと前に『七人の侍』をテレビでやろうって話があったんだけど、永瀬(正敏)はすぐに降りたでしょう。「できません」って。あいつは頭がいいよね。どうしたって、三船(敏郎)さんにはかないっこないんだから。だからさ、『椿三十郎』を今やろうなんてやつは、ちょっとおかしいんじゃないかと思うね。
駄作を撮っても許された時代
結月 あの時代は役者もそうですが、監督も今の監督よりもはるかに力がありましたね。黒澤明はもちろん、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男……。世界的に見ても、ものすごくレベルが高い。
上田 ただ、今と昔では1年間に撮る本数の違いもあるんです。今の若い連中がどうして力が出ないかというと、昔と比べると撮る本数が圧倒的に少ないからなんだよ。あの時代の監督は、それこそ年に5本以上作ってた。そのうちの1本でも当たればいいわけ。野球じゃないけど、4打数1安打、2割5分でもいい打者ということになる。今の日本映画はそんな余裕はないから、1打数1安打しかない。1本撮ってそれが当たらなかったら、すぐにクビですから。
昔の名監督と呼ばれる人でも、例外的に駄作が少ないのは黒澤さんと小津さんくらいで、他の人は作品をずらっと並べてみると、だいたい駄作が7割くらいですよ。
溝口だって、成瀬だって駄作を何本も作ってる。駄作を作ってもよかった時代だったんです。特に最近、再評価されているマキノ雅広なんて、200打数10安打くらいじゃないですか。それでも、昔はその10本が有名になれば名監督になれたんですよ。マキノさんのことをこんなふうに言ったら、東映の連中にぶっ飛ばされるけどね(笑)。
 やっぱり、今とは時代が違うんですよ。昔は名監督といっても失敗作が許された。こういうことを言う映画評論家はほとんどいないけど、俺はそう思う。だから、今の人はかわいそうだよね。今の若い監督にはろくなのがいないっていうのは、ある意味では当然のことなんだよ。
映画はフィルムにかぎる
結月 今日はWebマガジンなのでデジカメで撮影させていただきましたが、本当はライカで撮ろうと思ったんですよ。上田さんはいつも映画はフィルムだとおっしゃっていて、わたくしも本当にそうだと思うんです。デジタルだと奥行きが出ないということもあるんですが、まずは精神的な問題なんですね。現像してみないとわからないという。
上田 それこそ、キャパの世界ですよ。何が写ってるかわからないけど撮ってる。これが凄い。
結月 最近は映画の世界でも、フィルムは少なくなっているんですか。
上田 今は8ミリでも、現像するのにアメリカに送らないといけないくらいだから。俺みたいにフィルムだけで終わるっていうのは、めずらしい存在だね。
結月 フィルムだと、芝居をするほうもシビアになりますよね。緊張感が違う。
上田 全然違うよ。今の役者はそれをわかってないからダメなんだね。そういう教育を受けていないから。
結月 テレビドラマのNG集なんかを見ると、失敗した女優が無邪気に舌を出して笑ってるんですね。ああいうのを見ると、わたし、すごく頭に来るんです。
上田 ビデオは何回でも使えるからね。フィルムは一発勝負で、しかも現像が上がってくるまでわからない。その面白さと怖さがわかってないんだね。
結月 そういうことって、今の時代に最も失われているものだと思うんです。デジタルだとすぐに簡単に見られて、気に入らなかったら消せばいい。それではいいものはできません。
高峰秀子のためなら死んでもいい
結月 5年前にお会いした時に、この女優のためなら死んでもいいっていう女優は誰かというお話をされましたでしょう。その時に上田さんは、「俺は高峰秀子のためなら死ねる」とおっしゃった。で、わたくしが「コン・リーのためなら死んでもいい」と言ったら、上田さんも「俺も死にたい!」って。
上田 コン・リーはいいねえ! チャン・ツィイーなんかとは桁が違う。『始皇帝暗殺』(1998)の試写会が北京であったんだけど、プロデューサーがよく知ってる日本人で「コン・リー呼びますよ」って言うから、わざわざ北京まで行ったんだよ。ところが、呼んでくれなかった(笑)。コン・リーは会いたかったなあ。でも、この前、彼女がアメリカでやった『マイアミ・バイス』(2006)は酷かったよ。こんなのに出ちゃうのかって、がっかりしちゃったよ。
結月 わたくしもチャン・イーモウの作品はずっと好きだったんですけど、コン・リーが抜けてチャン・ツィイーになってからはダメですね。
上田 全然ダメ。チャン・ツィイーは最初の頃の『初恋のきた道』(1999)が一番よかったね。まだ言うことを聞いた時代だったんだよ(笑)。
結月 でも、『HERO』(2002)あたりになると、もう……。
上田 チャン・イーモウは北京オリンピックの開会式の演出もやったけど、あれは味噌を付けちゃったね。そういえば、『HERO』ではクリストファー・ドイルというカメラマンが撮影を担当してるんだけど、彼とは2回くらい飲んで大騒ぎしたことがある。クリストファー・ドイルというのは面白いやつでね。完全なアル中(笑)。でも、仕事をさせると上手いんだ。彼のカメラはなかなかのものですよ。
黒澤明監督の思い出
結月 お酒といえば、黒澤組でも相当お飲みになられたんでしょう。
上田 相当なんてもんじゃない(笑)。撮影中は毎晩だから。黒澤明というのはすごい人でね、現場にはいつもジャガーに乗ってくるんだけど、後ろのトランクはバーッと全部ウィスキーのホワイトホースが入ってるんだよ。それをスタッフみんなに配って、2、3日で全部飲んじゃう。黒澤さんは馬が大好きだから酒はホワイトホースと決めてて、他の酒は飲まないんです。そういう人なの。で、あの組に行くと、肉しか出てこない。
結月 黒澤さんは肉がお好きだったんですか。
上田 肉しか食わない。それで、自分が好きなものだから、みんなも肉が好きだと思ってて、やたらと食わせるわけ。若いやつらは栄養不足だから、とにかく肉を食えと。いつだったか、牛の足をまるごと送ってきたこともあったね。じつは、俺はあんまり肉は食わなくていい人なんだけど、黒澤さんに食えって言われたら食わなきゃけいない。それが毎晩だからね。こっちはやってられないよ。なんだ、また肉かって(笑)。むこうは俺が好きだと思ってやってるのね。「ウエちゃん、ちゃんと食ってるか」って。でも、そのうちに俺があんまり食わないってわかったんだよね。そしたら、俺のぶんだけ魚を用意してくれるわけ。ズラーッと肉が並んでるなかで俺だけ魚。今度は恥ずかしくて食えない(笑)。そのくらいちゃんと見てくれてた。
結月 やさしい方なんですね。
上田 あの人は現場のスタッフはすごく可愛がったね。でも、製作はボロクソ(笑)。『乱』(1985)のプロデューサーのセルジュ・シルベルマンなんて、現場に来ると「帰れ!」って言われてた。そういうことを言う監督も、今はいないよね。『八月の狂詩曲』(1991)の時もひどかったよ。あれは松竹でやったんだけど、記者会見の席で当時の松竹の社長の奥山(和由)が隣に座ってるのに、「こういう連中が金出さないで口だけ出すんだよ」って。むこうも文句くらい言いたいんだけど、記者の前だから何も言えない(笑)。
『影武者』撮影秘話
結月 上田さんが黒澤組で撮影を担当されたのは、『影武者』(1980) からですね。
上田 『影武者』の時は、じつは俺は最初はスタッフには入ってなかったんです。勝新の降板問題があったりして、宮川(一夫)さんが途中で降りちゃったんだね。
結月 最初は宮川さんだったんですか。
上田 そう。勝新も宮川さんも京都大映だから。
結月 勝新が降りた原因は何だったんですか。
上田 あれは、勝新が自分の芝居を勝手に違うやつに撮らせてたんだよね。そしたら、黒澤さんが「お前、何してるんだ!」って。勝新はそれで自分の芝居を研究してたらしいんだよ。そしたら、監督はふたりいらないってことで喧嘩になっちゃった。
結月 その後、ふたりは仲直りしたんですか。
上田 いや、ふたりとも意地っ張りだから(笑)。両方ともスターで、俺が俺がだから、どっちも謝りには行かないよ。で、勝新の後は仲代(達矢)さんがやることになって、宮川さんの後を誰にしようかというので、俺のところに来たわけ。本当は俺は嫌だったんだよ。自分の仕事があったんだから。でも、黒澤さんが「俺が欲しいんだから、いいから来い」って(笑)。そこまで言って連れてきたくせに、現場に行っても何も教えないんだよ。
結月 細かい指示はなかったんですか。
上田 これを撮れとも何も言わないで、「とにかく撮れ」って。しょうがないよね(笑)。そんな感じで初日を撮って、4日くらいして1発目のラッシュが上がってきて、それを見て「ああ、いいんじゃないの」って。それ以外は何も言わない。だから、こっちはいかに丹念にホン(脚本)を読むかということしかないわけだ。
 黒澤組ではいつも斎藤孝雄さんと一緒にカメラを回してたんだけど、一番感激したのは、『影武者』の時に武士が敗れて帰ってくる時の夕景のシーンだね。斎藤さんがAカメでずっと準備してて、俺はこっち側で構えて、2台でずっと回してたんです。そしたら、たまたま俺のほうに夕日が入ったんだよ。その時にはじめて、ああ、これで黒澤組でいけると思った。黒澤さんというのは単純な人だから、一発何かをやって、こいつはちゃんとやってるなと思ったら、それでいいわけ。それから俺は20年近くつきあったけど、そういうものだと思うよ、チームというのは。
(来月号の後編に続く…)
上田正治 Shoji Ueda
1938年1月1日、千葉県生まれ。
56年に東宝入社。撮影助手を経て71年に技師昇格。83年からフリー。
黒澤明監督の『影武者』(80)、『乱』(85)、『夢』(90)、『八月の狂詩曲』(91)、『まあだだよ』(93)で撮影を担当。日本アカデミー賞最優秀撮影賞を受賞した『雨あがる』(00)、『阿弥陀堂だより』(02)、『博士の愛した数式』(06)、『明日への遺言』(08)と、黒澤明監督に師事した小泉堯史監督作の撮影はすべて手がけている。他に松本正志監督作『狼の紋章』(73)、福田純監督作『エスパイ』(74)、小谷参靖監督作『F2グランプリ』(84)、恩地日出夫監督作『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』(85)、太田圭監督作『ほんの5g』(88)、恩地日出夫監督作『蕨野行』(03)、新城卓監督作『俺は、君のためにこそ死ににいく』(07)などがある。
イギリスアカデミー賞撮影賞、日本アカデミー賞最優秀撮影賞、毎日映画コンクール撮影賞、Asian Perspective Award(バンコク国際映画祭)、シラキュース インターナショナル・フィルム・フェスティバル撮影賞など受賞歴多数。
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