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~鏑木清方の女たち~

今回は日本画より色彩を学ぶことより、その着こなしを見てみることに致しましょう。

鏑木清方という日本画の巨匠の作品を参考に、ちょっと贅沢ではございますが芸術的な色彩からポイントをずらしてそこに描かれた女性たちの着こなしを見てみたいと思います。

イマドキの着付けはいつからこうなったのかわかりませんが、とにかく寸胴だとされていて、そのためにタオルを詰め込んだり、グルグル巻きにしたり、まるでぬいぐるみのような有様でこの上なく動きにくいものです。

伽羅

例えば現代の着付けでは必ず帯板というものを使います。これは帯を体に巻く際にお腹の部分に挟む板で、これを入れることにより帯締めを締めたときに帯にしわが入らないようになります。
 実は今でこそ当たり前の帯板ですが、これは戦後の産物で昔はあのようなものは使っておりませんでした。その証拠に当時の写真や日本画を見ても、帯締めのところで帯がくびれております。

苦楽表紙

着物を初めて着たひとは総じて帯を巻くと背筋がシャキッとすると言いますが、帯は本来矯正ギブスではございません。また着物は苦しいという人が多いけれど、お腹にあんな硬い帯板やタオルを入れるのだから苦しいに決まっております。

着物を考える上で重要なことは、今の人は着物をやたらとかしこまったものだと思い込んでいる点です。無論振袖などフォーマルなものはあるにしても、昔は日常的に普通に着ておりました。

帯板が戦後生まれたというのは、つまり戦後急速に着物離れが進んだことが大きな一因と考えられます。着物が滅多に着ないものになったことから、着物を着るときはちょっとしたお出かけであったり、結婚式であったりして着る機会が極めて限定的となりました。そのため少し我慢しても見た目がきれいな帯板を挟もうということになったのだと思われます。

さて、今回取り上げる清方による複数の日本画は、当然ながら着物が日常であった明治期の作品でありますから、当時の着こなし、そして着付けを証明するに当たっての充分な資料となります。

日本画においてとりわけ美人画は、無論着物を着た女性を描くことがほとんどで、着物を着こなした女性というものがいかに美しくて、画家たちの芸術的表現の対象になったかを物語っています。
 そこで描かれているのは緻密な友禅柄はもちろんですが、やはり着物姿の女性が醸し出す美しさです。鏑木清方に限らず日本画家たちは、着物を着た日本女性の「動き」を絵にしてきました。

ところがイマドキの着付けだと着物を着こなした動きの美しさというより、なんだか置物といった着付けで、ブリキ板のような帯に幾何学的に合わせられた衿元、そして直線的なおはしょり、さらには皺ひとつないところは、生活感がまるで感じさせない不自然さが無機質な印象を与えます。つまり、美しさの“匂い”というものがない。

日本橋

人間というのは当然ながら仕事をするときでも、生活をするときでも、家事をするときでも肉体は動かさねばなりません。しかしながら、イマドキの着付けはこの人間生活で当たり前の肉体的動作を殺したものと言えましょう。

また女性の肉体的美を考えると、男性のそれと明らかに異なるのはその曲線でございます。男性より皮下脂肪の多い女性の肉体の丸み、柔らかい乳房、ぽちゃりとしたお尻など、女性の肉体的特長は“曲線”であり、決して“直線”ではございません。

日本橋2

しかし、恐ろしいことにイマドキの着付けは女性の体を無理やりに直線にしてしまいます。

確かに着物というのは反物をすべて直線的に裁ち、仕立て上げるところが特徴です。反面、洋服というのは体の曲線に合わせた作りをするので体のラインをはっきりと出します。
 しかし着物は直線的に裁ったものを曲線の体に巻きつけることにより洋服にはないいわば「余分」のある形状となります。この余分が袖であり、裾であったり、しわであったりするわけで、直線的に裁たれたそれらがゆらゆらと動いたり、程よく着崩れたりするとたちまち曲線のある動作となります。

ここで清方の絵を見てみましょう。

これらの絵に共通していることは、すべて柔軟な着付けをしているという点です。寒い日の昼寝の目覚めのようなうっとりとした仕草、新年の餅を切る動作、酒を飲みながら悩みを告白する男に寄り添う芸妓などなど、どれを取っても女性的な肉体的曲線、曲線的動作、そして柔軟性が美しく描かれています。
 こうしたシーンでもし補正タオルや帯板を入れた拘束服のような着付けだと女性は背中を一直線に伸ばしっぱなしで、蝋人形のようにカチカチに正座していなければならず、もはや芸術的対象にはなり得ません。
 なぜなら、画家が芸術的対象とするのはまさしく女性美、つまり色気であり、無機的なものではないのですから。

さて、女性が放つ色気はとこから来るかと申しますと、その源泉は「生活感」に他なりません。

生活感が全くない女性の対照的な例をあげると、レースクィーンがそうでございます。レースクィーンをカメラで追っかけまわしている哀しき男性も一定数はいることは確かですが、レースクィーンは色気のある女性とはちょっと言い難い。
 その理由はレースクィーンの特徴が谷間を必要以上に見せた巨大な半乳であったり、ミニスカートから伸びる太腿であったり、いわば女性の肉体的部位という物質的なものを強調した性的興奮を奮い立たせる産物だからです。こうしたものは性欲の対象にはなりえますが、残念ながら美的な恋愛の対象にはならない。最終的に恋愛対象になるのは紛れもなく女性の「動作」でございます。

お蕎麦を食べるとき垂れ落ちてくる髪の毛を左手でそっと持ち上げる仕草、普段眼鏡をかけている女性がふと眼鏡を外し、遠くを眺めながら物思い気にぼんやりと外を眺めている…、もしくは身長より高い書棚に背伸びをして手を伸ばそうとしたときに、パンプスからストッキング越しに持ち上がったかかと、などなどこれらすべては動作でございまして、意外にも男性というのはこうしたちょっとしたものに惹かれてしまう場合が多い。

美人四季(夏)

レースクィーンはエロ本の表紙にはなりうるが、芸術的絵画のモチーフにはなりにくい。つまりこれは画家に恋愛感情を抱かせないからに他なりません。しかし先にあげたようなちょっとした仕草、動作は絵にもなるし、映画の演出にもよく使われます。
 いわばこれらは「生活感」でございまして、生活から生じたムーブメントは色気を発するのです。なぜならば、生活というのはわたしたちが誰しも共有しているものだからであり、その共通した地盤の中からわたしたちは共通言語として美を見出しています。まさにこれこそがその国の“文化”なのです。

レースクィーンの爆乳、ミニスカートはあまりにも非日常的なもので生活感がなく、一部のマニアだけが共有している特定的価値観で、一般的に共有しているものではございません。だからレースクィーンは一時的な性的対象にはなっても文化にはなりえない。

着物がなぜ美しいかというと、まさしく日本人が生活から生み出したものだからで、そこに日本人にしかできない動作や仕草があるからです。さらにわたしたち日本人はそれだけでなく、生活のための着物に友禅染をはじめとした絵や模様を施し、世界的にもレベルの高い服飾文化を築き上げました。

美人四季(秋)

よく着物は苦しいという声を聞きますが、1000年以上も着物文化が淘汰されずに存続してきたことを考えると、苦しいものではないはずです。なぜなら、非機能的で苦しいものは自ずと淘汰される運命にあるからです。
 また、現代のように洗濯は全自動、料理は電子レンジ、移動は自動車…などなどを考えると、明らかに昔より体を動かさなくていい生活をしているわけです。その反面、昔は洗濯はもちろん、料理をするにも何をするにも今よりは相当体を動かしているわけで、そのような状況の中でもし着物が機能的でなければもっと別のものが開発されていたはずです。

つまり、昔より体を動かさなくていい時代にもかかわらず着物が動きにくくて苦しいというのは、動きにくくて苦しい着付けをしているからに他ならず、わたしたちはこの誤った着付けから脱却しなければなりません。

そして生活感を漂わせる動作や仕草を抹殺してしまう堅苦しい着付けからは鏑木清方のような絵画も生まれず、動きにくいということは何よりも日本女性の美しさを真っ向から否定しているものとも言えましょう。

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