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vol.2 : ~日本女性の美~ (2008/12月号)

結月美妃でございます。

さて、今月からキモノ天国の新コーナー「結月美妃のキモノ美対談“スキなひとに愛たい!”」が始まります。いろいろな分野で活躍されているゲストをお迎えして着物の話題のみならず、森羅万象多岐にわたりお話を伺うコーナーでございます。ゲストあってのものでございますので、毎回できるかはわかりませんが、大目に見て下さいまし。
 第一回はあの世界の黒澤明監督の下でメインカメラを務めた上田正治さんをお迎えしました。『影武者』、『乱』をはじめ、黒澤明の映像美をフィルムに焼き込んだ一流の映画職人。
 黒澤監督のエピソードなど素敵なお話を聞いて参りましたので、どうぞご覧になって下さい。

閑話休題…

もう12月。ちょいと一年前に「あけましておめでとうございます」と元日に届くようにとせっせと万年筆をインクが空っぽになるまで年賀状に走らせていたと思ったら、また万年筆のインクを満タンにしなければなりませんね。

なんと時が経つのは早いものか。年賀状の柄が「ねずみ」から「うし」に変わること以外に、何が変わったのかしらん?と自問してみると、あっという間に感じた一年の間に、思いのほかいろいろなことが変化しているのにドキリとなって、タジタジとなって、とどのつまりはまた一歩、死に近づいたかと思うとひんやりとしたものが背筋を撫でるようで気持ちが悪い。

しかし明らかにこの一年で様々な変化がありました。私事でいうと、一年前に比べると体重が20kg軽くなった。病気でというわけでなくダイエットをして。そして着物を着たいと思ったら潜在化していた性同一性障害が薔薇にように美しく花開き、男として生きていたのが、半分以上女として意識するようになり、便利な言葉を使えばトランスジェンダーとなって性別を越えた。そして銀座を友禅の着物で過ごすようになった。

世界的に見れば、アメリカで歴史的な大統領が誕生し、原油価格や株価が半分以下のプライスになったり、ニッポンで見れば不動産バブルといわれた都心部が、駆けつけ一杯のビールを飲み干してもう一杯のビールがグラスに注がれたと思った程度の間に不動産不況となり、銀座の土地を買いまくっていた業者がまるで空っぽの酒瓶とわずかな食べ残しがあるだけで人一人いない宴会後のテーブルのようなり、寂れた憂愁を漂わせながら資産管財人が居酒屋のバイトのようにその後片付けをしていく。

しかしながら、そうした「変化」というのは何かの区切り、例えば卒業式だとか退職届を出すときだとか、総じて一年の終わりを迎える12月だとかにしか感じないものであって、つまりわたしたちは日々、とにかく一生懸命に生きるしかない。そして、そんな「変化」をしみじみと感じることもつかの間、“時”は無情に進み、卒業式は入社式となり、退職届はハローワークとなり、12月は新年になる。

とはいえ、そんなノスタルジーも人間には必要であって、気持ちをリセットして新たに「頑張るぞっ!!」という気合を入れねば生きていけないのだから、今月は2008年をしみじみと振り返りながら、クリスマスはできればロマンティックに過ごし、年末は忘年会で同僚の肩を叩きあいながら上司の悪口を肴にして杯を重ねることに致しましょう。

さて、前置きが長くなりましたが、今月は「日本女性の美」についてお話しましょう。

わたくしは生物学的に男ですが、今風に言えばトランスジェンダーで、男だと言われることに今さら腹は立ちはしないが、違和感は覚えます。性同一性障害と言われても、そもそも障害でもないのに「障害」という単語が使われているから気に入らない。
 しかしながら、まあ、女性的な美に携わっていればそれでいいので、正直、男でも女でもどちらでもよい境地でございます。
 とはいえ、わたくしは日本女性の美しさというものをこよなく愛しており、しかしながら今やそれは絶滅危惧種となりつつあり、なんとかそれを食い止めねばという思いからこうしてドンキホーテが風車に立ち向かうように孤軍奮闘しているのであります。

さて、日本女性の美を一言で言えば「空気感の美」でございます。わたくしが尊敬している矢田部英正氏の言葉で言えば「佇まいの美」と言えましょうか(中公叢書『たたずまいの美学』参照のこと)。

こうした日本女性的美がどのようなものか理解して頂くことは実に難しく、なぜならば日本人というのは自国の文化のすばらしさを評価しない傾向が強いからでございます。その反面、映画でも絵画でも欧米で認められると手のひらを返したように「すごいんだってね!」と評価する意地の悪いところがございます。
 とどのつまり、日本人は自己決定力に乏しいので外からの評価で判断してもらわなければ自信がもてない民族なのであります。ですので、日本女性の美を理解して頂くために、その対極にある女性のそれと比較することに致しましょう。

ある女性とはマリリン・モンローに他なりません。

マリリン・モンローはまさにダイナマイトセックスシンボルとして今でも世界にその名が轟いておりますが、日本女性の美とモンローは陰と陽の関係にございます。

モンローのダイナマイトボディはつまり、あのメガトン級のバスト、ムッチリムンムンなヒップ、そしてそれらを支える逞しい二本の脚。そして決定打は何といっても『お熱いのがお好き』でキスシーンを演じたトニー・カーティスに「ヒトラーとキスするようなものです」と言わしめた超ド級の吸い込まれるような半開きの紅い唇。

モンローのような女性美、つまりアメリカンな女性美とは、バスト、ヒップ、唇といった部位がやかましいくらいに自己主張をしていなければならない。
 しかしながら、わが国日本ではモンローは人気がないわけではないが、正直それほどでもございません。特に女性からの憧れはほとんどないといってよろしいかと思われる。

日本で男女共に人気なのはやはりオードリー・ヘップバーンでございます。

ヘップバーンの細身で華奢な肉体。控えめでキュートな笑顔。グラマーという言葉が微塵たりとも当てはまらないローマのお姫様。こちらのほうが日本的美意識に沿うものだと言えます。
 ちょっと想像するとわかりますが、例えばヘップバーンに振袖を着せてもまあ似合わなくはないと思われるが、マリリン・モンローの振袖姿というのはちょっと勘弁して欲しい。

このことは衣服についても当てはまることで、欧米の衣服というものはバストやヒップというセックスシンボルを強調するように作られています。これは最近のことだけではなく、王族、貴族たちの衣装、有名どころではマリア・テレジアしかり、マリー・アントワネットしかり、パリのルーブル美術館やフィレンツェのウフィッツィ美術館などに多数展示されている肖像画の数々を見れば一目瞭然です。

ところが日本のキモノはそうしたセックスシンボルをむき出しにするような作り方はされておりません。今でこそ巨乳や爆乳などホルスタインのようなバストが持てはやされておりますが、これは日本男児の幼児化が進んでいる証拠であり、キモノで過ごしていた頃の日本では、あまりバストが大きいとそれが帯の上にどっかりと乗っかってみっともないとのことからむしろそれは恥ずかしいものでした。

そう考えるとペチャパイにコンプレックスを感じる今の風潮は敗戦後のアメリカ的価値観の延長にあるのかもしれません。戦後、キモノは一気に衰退することなり、今ではほとんどのひとがペチャパイではいまいちキマらない洋服で過ごすようになったのですから、コンプレックスを感じるのは容易に理解できます。

ところで本来の日本女性の美とは、実はモンローのような特定の部位をアピールするところにはありません。それは具体的に特定するのが極めて困難な「空気的な」ものでございます。

日本女性といえども洋服だとその魅力が発揮されることはほとんどございませんので、キモノでお話致しますが、着物姿の日本女性の美しさは例えば腕を動かすたびに揺れ動く袖であったり、裾が捲れぬように座る仕草であったり、もしくは歩くときに覗いて見える八掛(着物の裏地)であったり、つまりはその動作、仕草から生まれている美でございます。

このことは絵画でお話しするとわかりやすいのですが、西洋絵画では対象物をしっかりと直接的に捉えて描かれています。つまり画家の自我が対象物を完全に支配しています。
 しかし、日本画ではむしろ絵描きの自我が対象物に服従している。自我はもちろんあるにはあるが、対象物に対して支配的だとは言い難い。
 さらに日本画は極めて映像的な描き方をされます。北斎や広重の浮世絵でも江戸の町民たちの動きがまるで映画のワンシーンのように感じられますし、上村松園の美人画も夏の風景の中に浴衣美人の傍を蛍がふんわりと飛ぶ様子はまるで動画でありあります。そこには一分前と一分後といった時の流れを感じさせる時間軸がございます。つまり時間軸が発生することにより日本独特な「空気感」が生まれるわけでございます。

日本人というのはこうした空気感で生きている民族でございます。それゆえKYといった流行語に見られるように、その場の空気を読めるか読めないかということが問題になってくるのです。このことは言語にも表れていて、イエス、ノーをはっきりと言わなくとも相手の意図を察し、意思疎通ができてしまう。

日本人は中学の頃から英語を教育で学んでいますが、大卒であっても英語を話せるひとはあまりいません。中学や高校の英語教師など受験の英語文法は知っていてもネイティヴと英会話もできないことが珍しくないくらいなのですから。
 この事実は日本人の頭が悪いということではなく、イエス、ノーで成り立つ英語で話す思考回路が元々ないからでございまして、日本語に見られる曖昧な表現、もしくは空気、呼吸というのは直接的言語である英語ではそもそも表現不能だからでございます。
 その結果、無理して英語を話す日本人旅行者などが海外でなんだかよくわかっていないのに身振り手振りで「オ~!イエ~ス!」などと論理性が欠落した感嘆表現で乗り切ろうとしたみっともないこととなるわけです。

実は衣服でも同じ現象が今日本では起きています。

イエス、ノーをはっきりとする言語と特性を同じくした洋服を着こなすには、英語を話せるようになるのに学習が必要なのと同様に、本来は着こなす訓練が必要です。
 日本は着物文化を喪失しかけてはいますが、体の動きはやはり日本人。歩き方、お茶の飲み方、椅子の座り方、はたまた便器のしゃがみ方までとにかく欧米とは異なり徹底して日本人なのです。つまりこれらは着物だと美しく見える動作です。

日本人はイタリアンレストランでフォークとナイフを持ったところでそうした日本人的動作をしているのですから、洋服を着たところで似合うはずがないのはわかりきったことで、いえ、今は悲しいことに似合っていないということさえ自覚できないところまできていると言えるでしょう。

このことが如実に見受けられるのが結婚式の風景でございます。とはいえ、わたくしはあの結婚式という実にくだらない茶番劇が大嫌いで、今まで一度も行ったことがなく、一律してお断りしているので、その現場に立ち会ったことがございません。
 そもそも結婚などというものはあんな臭い演出で盛り上げるものでもなく、「おめでとう!」などと祝福するものではございません。だって結婚生活には身の毛もよだつ現実が待ち受けているわけでございますから…
 ですから、友人や親戚の結婚の知らせを聞くときは、わたくしはいつも心の中でお線香を上げ、「お気の毒に…」とつぶやき、チーンと鐘を鳴らして手を合わせております。

むしろ盛大にやったほうがいいのは「離婚式」でございましょう! 離婚式をやる方はおそらくそうはいないでしょうが、これはやったほうがよろしい。
 この式にて離婚にまで至った諸原因、恨み辛みはすべて忘れ去り、お互いが今後人生において全く関与し合わないことを固く誓うのです。そして、結婚生活という呪縛から解放された自由の喜びを親戚、友人一同と分かち合い、浴びるように酒を飲んで心の大掃除と消毒をするのです。
  そうすれば「別れた女房が…」とか、「前の旦那が…」だとか、しみったれた感情が湧くはずもなく、新たな人生を気持ちよくスタートすることができます。

と、話が大きく逸れてしまいましたが、言いたかったことは結婚式に参列する女子たちの衣装でございます。お話した通りわたくしは結婚式を見たことはないが、二次会の風景は街で見かけることはあります。

参列者は衣装替えなんかしないので、そのままの服で二次会に突入しているのでしょうが、ここぞとばかりに張り切って着たドレス風の衣装の惨めさは外国人観光客には恥ずかしくて見せられたものではございません。

胴長短足の愛すべき大和撫子体型にフリルのついたドレスはまるで片田舎の学芸会で催される演劇発表会のような有様で、美容院で施したパーティ風の髪型がそれにさらなる惨めさを手厚く演出します。そして当の本人たちは、そうした特別な衣装を身にまとうことにあまりにも満足げな様子ですからもう救いようがありません。着物にしておけば恥をかかずに済むものを…
 まあもっと言えば、参列者だけでなく新婦のウエディングドレス姿など得てして日本人の体型に似合うはずもなく、それでいて真面目な顔して結婚写真まで撮影してしまうのですから、女の自意識というのは恐ろしいものです。
 さらに驚くことにその写真がプリントされた年賀状なんかが追い討ちをかけて来るのですから、もしかすると現代の日本女性は新郎と人生を共に歩みたくて結婚するのではなく、ウエディングドレスを着てみたいから結婚するのかもしれない…

ところで銀座のブティックなどのショーウィンドウを覗くと確かにカッコいい服は飾られている。しかし、それらの服を着せられたマネキンの体型はことごとく西洋人のものであり、スラリと長くて細い脚。形よくせり出したバスト、彫りの深いキリリとした顔。つまり日本人とは似ても似つかないマネキンが着ているからカッコいいのでございます。

しかし、我らが日本女子はそのカラクリに気づかないのか、もしくは真剣に似合うと思っているのか、それとも物欲が理性を凌駕しているのか、肉体的プロポーションから似合うはずもない洋服をせっせと買っていることがわたくしは不思議でたまらない。

「馬子にも衣装」ということわざがございますが、わたくしは馬子は馬子だと思う。普段ジャージで過ごしているようなひとが、その場限りでドレスと着たところで、そもそも身のこなし方がジャージなのだから、普段のだらしない生活の風景がドレス越しに透けて見えます。
 夜な夜なコンビニに行くと、高そうな洋服を着た仕事帰りの女性が、カゴにドサドサとカップ麺を放り込んでいる絶望的風景に遭遇することがありますが、こうした食生活の女がいくらいい服を着て極上のフランス料理店に行ったところで、エレガンスを醸し出すことは到底できない。それにカップ麺のお会計のために取り出す財布がルイ・ヴィトンだったりするのですから開いた口が塞がりません。

つまり、いい服を着たときに美しく、エレガントに、カッコよく着こなせるかは、すでに普段の日常生活から決定されており、そしてそれ以前に肉体的条件が要求されているのでございまして、それらの条件を満たしていない最たる惨劇、それがまさしくおぞましき結婚式です。

着物離れが進んで何十年と経ち、着物を自分で着られないひとが大半となって、でも洋服は着こなせない、着物も着こなせないとなれば日本女性は何を着ればいいのかしら?と心配になるのでございます。

最後に掲載した写真をご覧下さい。日本的な女性美とはこういったものでございます。

大正美人

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