銀座で着物のオーダーメイド・仕立て・メンテナンスなら結美堂 着付け教室も開催


お問い合わせはこちら
赤い襦袢と白い足。
『刺青』 増村保造監督 1966年 大映京都

大店のひとり娘とその店の手代という「道ならぬ恋」を成就させるために、親戚の不幸で両親が一晩家をあけるという好機を逃すまいと、番頭や店の者たちには早く寝るようにと言いふくめ、寒い雪の晩に店の金を持ちだして家を飛びだしたお艶(若尾文子)は、お嬢さん、足袋をお履きになったら、と寒さを気づかう駆け落ち相手の新助(長谷川明男)の言葉をさえぎり、あたしは素足が好きなんだよ、芸者みたいで粋じゃないかと、赤い襦袢の裾から白い素足をのぞかせて新助に寄り添いながら歩き、この雪ではとても無理です、またの折にしましょうと男が弱腰になると、頭にかぶった微かにグレーがかった淡い水色の手拭いを地面にたたき捨て、あたしはお前のためにおとっつあんもおっかさんも捨てたんだ、お前がやめるなら、あたしゃ死ぬ、死んでやるんだよ、と小気味よい江戸弁で啖呵を切って、止めようとする男の腕をいやいやをするように肩を揺すって振り払い、橋の欄干に手をかけて川に身を投げようとする。

雪の降りしきる橋の上をひとつの蛇の目傘をさして渡る「道行き」の二人の全身の後ろ姿を捉えたミディアムショットは、襦袢の裾の鮮やかな赤、夜の川と黒塗りの下駄の黒、ちらちらと舞い落ちる雪と歩くたびに上下に揺れる若尾文子の踵の白という、三原色のコントラストがとても美しく、名カメラマン宮川一夫のアングルも完璧な素晴らしい場面であるにもかかわらず、なんとなく物足りなさを感じてしまったのは、この映画を見る前に谷崎の原作を読み返していたからかもしれません。

谷崎が「足フェチ」であったことはつとに有名で、二十四歳で発表した処女作の『刺青』でも刺青師の清吉が「永年たずねあぐんだ、女の中の女」を見初めたのは、深川の料理屋の前で偶然目にした籠からこぼれる「白い足」でした。

その場面では「拇指から起こって小指に終わる繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢」と、谷崎ならではの過剰なまでの美しい描写が続くわけですが、『刺青』と『お艶殺し』をもとに新藤兼人が脚色したこの映画では、刺青師の山本學と若尾文子がはじめて出会うのは駆け落ちしたふたりが身を寄せる船宿(ここの主人に騙されて若尾文子は芸者に売り飛ばされる)の広間(背中に刺青を入れた上半身裸の男たちが博打に興じている)という設定になっていて、着物の胸元がしどけなくはだけ、寝乱れておくれ毛がほつれたままの若尾文子(ものもろくに食べずに十日も宿に籠りきりで睦みあっていた)は、男たちの視線の間を縫うように気怠くゆっくりと素足で歩き、その「白い足」が部屋のすみで片膝を立てて座る山本學の目に止まるのですが、欲望が言葉となって溢れでて愛撫するような谷崎の描写を読んだ後では、映画のこの場面(宮川一夫のカメラはあくまでもなめらかで美しい)はあまりにもあっさりしすぎていて、増村保造と若尾文子の大ファンである私としては、これはきっと脚本が面白くないからに違いないと、理由もなく新藤兼人のせいにしたくなってしまう。 「其れはまだ人々が『愚(おろか)』と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった」と、『刺青』の冒頭で谷崎が記した「貴い徳」である愚かさが、この映画にはどこか足りないのです。

私がこのように感じてしまうのは、たまたま同じ時期にロメールの『クレールの膝』を十何年ぶりかで見返していたということもあって、映画のラスト近く、湖畔の東屋で雨宿りをするシーンで、中年に近づいたジャン・クロード・ブリアリはバカンスで出会った美しい少女(クレール)のなめらかな輝くような小麦色の膝にはじめて触れ、その時カメラは、まるでブリアリの隠しきれない欲望と戸惑いをそのままあらわすようにつつましやかに(しかし、あからさまに)ほんの微かにズームするのですが、監督であるロメールとアルメンドロスのカメラとスクリーンの中のブリアリと見ているわたしたちの欲望がひとつに溶けあった、まさに映画でしか味わえない「奇跡のような」瞬間を目にして、感動のあまり思わず涙したのでした。

それはともかく、『映画女優 若尾文子』(四方田犬彦・斎藤綾子編著、みすず書房)に収録されたインタビューのなかで若尾文子は、「谷崎先生はね、読むぶんにはすごく好きなんだけど、やると全部失敗だと思う、あたし自身は。特に『刺青』なんていうのは、失敗したなあっていまだに思っていますね。もちろん、増村さんの演出はスパッとしててね。だけど、あれはもうちょっとやり方があったと思ってるの」と語っていて、ほら、やっぱりね!と妙に納得しました。

じつは、6年前にニューオータニのスイーツで行われたこのインタビューには私も同席していたのですが、「俳優って、私思うにね、演技がどうのと言うけれど、第一に肉体的条件ですよ」と語る彼女が、最近お気に入りだというチョウ・ユンファに会った時の話のなかで、「会ったことだけでいいんですよ、もう(笑)。だって、しょうがないものねえ、それ以上」と少しはにかみながら呟いた時には、この女(優)として現役バリバリの発言と、その発言にまったく違和感を感じさせない凄さと美しさに驚きにも近い感動をおぼえ、おお、文子様!……と、心のなかでうっとりと感嘆符付きの溜め息をついたものでした。

もちろん、私が今回なんとなく物足りなく感じてしまったのは、あくまでも、「増村の他の傑作と比べたら」とか、「谷崎の原作と比べたら」ということで、増村保造の演出も宮川一夫のカメラも凡百の作品とは比べようもないくらい素晴らしく、もちろん、肌理こまやかな美しい白い背中に女郎蜘蛛の刺青を入れた若尾文子は文句なしに美しい。シネスコの画面のなかで若尾文子が何度も脱ぎ着する着物(帯締めは結ばずに衣紋を大きく抜いてゆったりと着付け、惚れた男の前では自分からするすると帯を解いて脱ぐ時のすばやさ!)と、紅葉の葉や小さな花模様が白抜きで描かれた真っ赤な襦袢の美しさを見ているだけでも、十分に楽しめる映画でもあるのです。

(網倉俊旨)

▲ page top
結月美妃の今月の“おハナシ!”
vol.3 キモノ・ルネサンス
日本画に学ぶ
キモノの色コーディネイト
霊性が宿る着物
横山大観と上村松園
アミのおしゃれ泥棒 キモノ篇
赤い襦袢と白い足。
『刺青』
キモノなカクテル
アレキサンダー
結月美妃のキモノ美対談
“スキなひとに愛たい!”
上田正治×結月美妃 -後編-