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夏の夢、もしくは夢の黄昏。
『書かれた顔』 ダニエル・シュミット監督 1995年 ユーロスペース/T&Cフィルム

私がライターの仕事をはじめてまだ間もない頃、ということは、かれこれ十五年以上前の話になるのですが、同じ大学出身の友人が編集者をしていた『花も嵐も』という月刊誌でほぼ毎月、インタビュー記事などの原稿を書いていました。書店売りはなく、年間購読のみの会員制で(といっても、「和楽」や「SEVEN SEAS」のような成金=スノッブ向けの雑誌ではない)、読者は高齢の方が多く(といっても、「サライ」や「いきいき」のように物質至上主義的でもない)、編集長兼社長も含めて社員数名の小さな出版社が発行している(ということは、当然、原稿料もあまり高くはない)部数も限られた雑誌ですが、毎月の表紙は中原淳一や高畠華宵や蕗谷紅児といった、大正から昭和初期にかけて活躍した抒情画家たちの絵が飾り(そういえば、私がどうしても一度お会いしたかった淀川長治さんにインタビューをさせてもらったのもこの雑誌で、中原淳一が描いた少女の絵――ピンクのブラウスに水色の背景――が表紙になっていた最新号をさしあげると、淀川さんは「まっ、いやらしい」といかにも嬉しそうにおっしゃった!)、吉屋信子の『花物語』を(もちろん、中原淳一の挿絵付きで)抄録したり、田村隆一や田辺聖子や佐藤愛子などが巻頭のエッセイを執筆していたりと、いまにして思えばとても贅沢な雑誌だったと思います。

柳町に住む現役最高齢の芸者、鳶清小松朝じさん(当時百歳)を取材したのも、この雑誌の仕事でした。とても暑い夏の盛りの夕刻に近い午後、浅草橋から柳橋に向かう神田川沿いの道には陽炎がゆらめき、屋形船が浮かぶ水面は茶色がかった深緑色に澱んでいました。残念ながら、この時のインタビューが載っている雑誌はいまはもう手元にはなく、ワープロで書いた原稿を保存しておいたフロッピーディスクもいつのまにかなくなってしまったので、何を話したかはほとんど思い出せないのですが、ただ、常磐津の名手でもあった朝じさんは、洗いこんで肌によく馴染んだ白地に紺の葉模様の涼しげな浴衣をゆったりと(しかし、だらしないという印象は微塵も与えずに)着ていて、「この柄は常磐津に合わせたのよ」と言いながら揃えた指先を浴衣の胸元にそっとあてた仕草と、「トランプ占いが好きでね、毎日やっているんですよ」とおっしゃっるので、思わず「恋占いですか?」と訊ねると、そんな野暮なことは聞くもんじゃないわよと言いたげな茶目っ気のある表情で軽く目くばせをした後、すこし間を置いて「どうかしら?」と意味ありげに微笑んだことだけは、いまでもはっきりと憶えています。

その時、私は、まるでダニエル・シュミット監督の『トスカの接吻』(ミラノにある「ヴェルディの家」という、ヴェルディの残した基金をもとに建てられた、引退した音楽家たちのための施設で撮影されたドキュメンタリー)に登場する往年のプリマドンナ(トランプのひとり占いをしながら、「こう見えても忙しいのよ、歌ったり、トランプをしたり……」と呟く)みたいだ!と思い、そのおかげで、インタビューの最後に朝じさんは三味線を弾きながら小唄を披露してくれたのですが、私の頭のなかでは朝じさんの歌声と一緒にプッチーニの「歌に生き、愛に生き」の旋律が響いていたのでした。

その翌年、私は思いがけないところで朝じさんの姿をふたたび目にすることになるのですが、それはもちろん、ダニエル・シュミット監督が日本で撮影した新作のスクリーンの中だったのです。

「この映画は、トワイライト・ゾーン、そして夕暮れに撮られたもので、つまり男と女の間で、舞台と楽屋の間で、光と影の間で、西洋と東洋の間で撮られたものです」と、シュミット監督自身が語る坂東玉三郎主演の『書かれた顔』(このタイトルはロラン・バルトの『表徴の帝国』からとられている)は、玉三郎の「鷺娘」や「積恋雪関扉」などの舞台と舞台裏でのインタビューを中心に、玉三郎が若いふたりの男の間で揺れる年増の芸者を演じる劇中劇の「黄昏芸者情話」や、杉村春子が主演した成瀬巳喜男監督の『晩菊』(杉村春子と成瀬の『晩菊』については次の号で詳しく書く予定です)が挿入されるという、現実と虚構が夢幻的に入り交じったシュミット独特の手法で撮られた作品で、そこに玉三郎が「憧れの人」と語る女優の杉村春子(当時八十八歳)や日本舞踊の武村はん(当時九十二歳)の談話や、白塗りで女装した大野一雄(当時八十八歳)の舞踏の断片が「伝説」として散りばめられ、見ているとまるで時代がかった古い劇場の薄暗い舞台裏を彷徨うようなというか、複雑な迷路に迷い込んだようなというか、怖いような嬉しいような、淋しいような楽しいような、懐かしいような見知らぬような、とにかく、とても不思議な気持ちになるのですが、その「伝説」のひとりとして鳶清小松朝じさんも登場します。

私はダニエル・シュミットの映画が大好きで、大学生時代にお茶の水のアテネフランセに通って日本で上映されたすべての作品を見ていたので、シュミットの映画のなかに朝じさんの姿をはじめて発見したときは、この喜ばしい偶然に思わず驚喜しました。しかし、よく考えてみると、「メロドラマの巨匠」と呼ばれたハリウッドの映画監督、ダグラス・サークのドキュメンタリーである『人生の幻影』や『トスカの接吻』をつくったシュミットが日本に来て、撮影当時百一歳だった芸者の朝じさんをフィルムに撮りたいと考えたことは、ごく当然のことだったのかもしれません。

この映画のなかで、化粧を落とした素顔の玉三郎は、薄青い町並みと暮れゆく夕陽が映るホテルの窓を眺めてフランス語とイタリア語で「とてもきれい」と呟き、ソファーにもたれながらシュミットのインタビューに答えて、「たとえばガルボでも、ディートリッヒでも、ハリウッドの女の作品として作り上げたところに女の美しさがある。武原はんさん、杉村春子さんだって、自分は女だということを一回、一種封じ込めて、自分が女だということをまず材料として横に置いて、それから自分の目で女を見て、自分の使える女の部分を、もう一度料理みたいに使うことのできる、独特の才能を持った方だと思ってるんです」と語るのですが、『書かれた顔』というのは、玉三郎はもちろん、杉村春子、武村はん、大野一雄、鳶清小松朝じという、長年女を演じつづけてきた(ある意味、怪物的ともいえる)人びとの着物の着こなしと、彼ら彼女らの「立ち」「居」「振る舞い」を堪能する映画でもあります。

「こういうふうにね」と言って撮影の手順の打ち合わせをする杉本春子が、おじぎをして座布団から立ち上がり、舞台袖に向かって歩く途中でちょっと振り返り、それからゆっくりと舞台裏に消えてゆく姿を、シュミットはそのまま映画のなかに登場させるのですが、その所作の文句のつけようのない見事さ。そして、「黄昏芸者情話」の屋形船のシーンで薄い絹のショールを風にはためかせる(この場面はレインボーブリッジの前で船を回転させながら撮影した!)玉三郎が身につけている朱色の地に鶴の絵を散りばめた着物とサックスブルーと黒の切り返しに染められた帯の絶妙な配色のバランス。洗練された美しさというのは平衡であると同時に、それをちょっとした遊び心で崩していくことでもあるのだということをあらためて思い知らされます。

また、この『書かれた顔』は、武原はんが踊る姿を最後に撮影した映画でもあります。しかし、「伝統は過ぎ去ります」と静かに語るダニエル・シュミットは、声高に「存亡の危機」を訴えることもなく、最近は頭の悪そうな若者が頻繁に使うので、すっかり手垢がついて白々しく響く安っぽい「リスペクト」という言葉を使うこともなく、さまざまな意味における境界(トワイライト・ゾーン=黄昏)に身をおく人びとに対する情愛をこめてそっと寄り添うように(しかし、同時に吸血鬼のような貪欲さでもって)、彼ら彼女らの姿をフィルムに収めます。じつは、私がこの映画を涙なしでは見られない理由はそこにもあるのですが、シュミットの慎ましいと同時に大胆な姿勢は、「小説とはすでに死にかけたジャンルだ。私はそのことを知っている。しかし、私は小説を愛しているのだ」というロラン・バルトの言葉ともぴったりと重なりあい、そして、このバルトの言葉の「小説」という部分は、もちろん「映画」と置き換えることもできるわけです。

「映画というのは、いつも作用している現在進行形の死を描いたものだ」と言ったのは、たしかジャン・コクトーだったと思いますが、『書かれた顔』が公開された翌年、朝じさんは百二歳で亡くなり、その後、杉村春子も武村はんも相次いでこの世を去りました。そして、三年前にダニエル・シュミットもいなくなったいま、あらためて『書かれた顔』を見ていると、鳶清小松朝じも杉村春子も武村はんも(もちろん、シュミットの魂も)映画の中でたしかに生きていて、あの暑い夏の日、柳橋の自宅で朝じさんとお会いしたことが、なんだか夢のなかの出来事だったように思えてくるのです。

(網倉俊旨)

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